完全に何も知らない私が個人的なブログに思いつきで書いているだけですから、流してもらっていいのですが、適当なことばっかり書いてみます。
論文というのはドキュメントです。ただの文章であって、それ自体が直接何かの働きをするわけではありません。私はITのことをちょっとかじっているのですが、こういう業界でも実際に動作するソフトウェアだけでなく、ドキュメントというのを作成します。ドキュメントは記録として残したり、後から参加した人や事情を知らない人が開発物の全容を把握したり、部分的な情報を得るために使うことがあります。実際のところ、ドキュメントで記述ミスというのは普通に起こりえます。コンピュータコードならコンパイルとかビルドという工程を通す際に記述ミス的なものが自動的にチェックされるのですが、ワードとかエクセルのドキュメントで、そのようなことはありませんから、記述ミスがあって、誰も指摘したり修正したりしなければ、そのままですし、そのままであっても実際に動作するソフトウェアには影響ありません。それでいいわけではありませんが、ドキュメントのミスを撲滅するには馬鹿げたコストをかけるようなことをしなければできないのが現実です。
どう表現してここに書くか難しいのですが、ドキュメントは手段であって目的ではありません。ドキュメントを軽視するわけではないのですが、ドキュメントにこだわりすぎるのは、本当にやらなければならないことをできなくしてしまうことがあります。
大企業やお役所仕事でありそうな話で、手続きや書類ばっかりに手間がかかって、簡単なことを遠回しにしなければならなくなることがあります。もちろん、煩雑な手続きがあるのは意味があってのことでしょうが、そうではなく形式や格好を先に考えて行うとすれば発想の順序が逆になっていることがあります。目的を達する必要のために手続きがあるのであって、手続きに無理に当てはめて実務をするのではありません。
科学の世界において論文を書くことというのは研究成果を研究者同士で共有するために必要なことであり、正確に記述することが大切で、論文を書ける能力は研究者に欠かせないもののひとつなのだろうと思います。
少々飛躍した話ではありますが、例えば架空の音楽家、ここではとりあえずベートーヴェンという名前にしておきますが、彼は耳が聞こえないとします。音楽家にとって音が聞こえないのは致命的とも言える欠点です。しかし、彼には音楽家として活動する資格がないかと言えばそれは必ずしも分かりません。音が聞こえなくても経験的に作曲活動ができるかもしれないからです。
研究者にとって論文を書く能力はおそらく絶対的に必要な能力なのだろうと思いますが、しかし論文はあくまで手段であって、目的ではありません。論文を書けなければ研究ができないかどうかは決めつけられないような気がします。
捏造とのことですが、どういう動機があって捏造するのか分かりませんが、捏造しても意味がありません。問題はドキュメントではなく、STAP細胞の存在だからです。仮になにかしらの悪意があって捏造したとするなら、あまりにも無意味なことですから、騒ぐような問題ではありません。
あと、論文を出す前に第三者がチェックするべきというのが言われますが、恐れずにはっきり言ってしまうと「面倒くさい」と思います。面倒くさいという言葉は悪いですが、つまり、研究者が膨大な時間と頭をつかってやってきた研究を、関わっていない他の研究者がトレースして、しかも疑いの目を持って、そうとうな時間と思慮をかけて行うというのは忍耐と犠牲が要ります。非現実的ということです。
次に、もうひとつの問題であるSTAP細胞が実在するかどうかということですが、これはどちらでも構わないと思います。STAP細胞が実在すればいいのかもしれませんが、なかったとしてもそういうことはありえます。昔、光より速いヒッグス粒子というのを発見したかもしれないという発表がありましたが、実際はどうやら計測ミスらしいということがありました。研究というのにそういうことはつきものです。慎重な発表は必要ですが、研究を萎縮させないために間違っていたからといってあまり強く責めることはできません。それに雑誌に掲載されたというだけのことで、まだ第三者による再現が広く行われる前の段階です。ですから、今後、実験の仕方に問題があって、STAP細胞ではなかったという結論になる可能性は普通にあります。
今のところこのニュースに関してはこんな感じですが、それにしてもマスコミには困ったものです。
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