2012年9月11日火曜日

なんのために生きているのか。生きる意味

私は、神や幽霊は、存在(実在)しないと考えている。
正確に言うと、神や幽霊の存在を言われても、それを認められるだけの証拠がない。納得のいく「確からしさ」すらない。存在を示すそれらしいものがなければ、現状においては、ないと考えるのが自然だ。それで何も問題ないし、それ以上追求する必要もない。

ところで、もし、あなたの目の前に幽霊が現れたとしたら、あなたはどうするだろうか?
テレビや映画でありそうなシーンのように、悲鳴をあげて怯えるだろうか?
子どもや女性はどうか知らないが、ある程度の大人の男性であれば、そういう反応とは少々違うのではないだろうか。
大人の男性は、なにも怖いものがないとまでは言わないが、暗闇程度でそれほど恐れるものでもない。

暗い山中で、半透明の人影が、あり得ないところに浮かんでいたとしたら、あなたはどうするだろうか?

私が思うに、まず、最初はそれがどういうものかをじっと観察するだろう。
それが幽霊らしきものだと思ったら、あなたの口から出るのは
「ギャ~~~~~~!!!」
ではなく、たとえば
「え~と・・・、すみません。これはどういうことですか?」
ではないだろうか。
幽霊が目の前に出たからといって、大人の男性がすぐに大声で悲鳴を上げるとは限らない。
はじめはなにかの冗談とすら思うかもしれない。

次に、注意深い人なら、確認できるポイントがたくさんある。
相手がこちらを視認できているのか。会話ができるか。まばたきはするか。服は来ているか。服や髪は風でなびいているか(空気との物理的接触が確認できるか)。3次元的に見えるのか。陰影はどちら方向についていて、光源はどこにあるのか(陰があれば光との物理的接触が認められる。自ら発光していれば、他の物を照らしているか)。
カメラを持っていれば、是非撮影したい。
本物だとしたら世紀の大発見だ。何事もなく帰ることができたなら、次はじっくり準備をしてから再訪して、存在を確かめたい。

しかし、残念ながら、そんなうまい儲け話はない。幽霊は存在しない。
私は、なにかの邪魔をしたいのでも、批判しているのでもない。幽霊や神は私にとって、感覚的にはサンタクロースと変わりないのだ。別に積極的に否定する必要はない。
言えることは、現状において、存在すると予想できるだけの事実に乏しく、存在しないと考えるのが自然だということだ。

突然、話は変わるが、最近、生きることに意味があるのか、ということに疑問を持つようになった。
そんなことを考えるのは、毎日が淡々と過ぎていくような日々を送っているからだろう。とりあえず何不自由なく生活しているものの、大きな夢もなく、むしろ現実に絶望感すら持っているからだ。
それで、「あ~あ、なんのために生きているのやら」というセリフが出てくる。

今更ながら、その答えが分かった。ようやく気がついた。
答えは「生きることに意味はない」だ。

地球上には、人間の他にも様々な生物が生きている。人間に一番近いのは猿。それから、犬、猫、鳥、魚、トカゲ、虫、微生物、植物・・・大量の生物が生きている。
地面を歩いているアリを見て、いちいち生きている意味を感じない。踏んづけて殺しても、世界を変える大事とは思わない。
私が死んでも、世の中なにも変わらない。世界中の大部分の人は私が死んだことを知ることもない。いなくなれば世界的に知れ渡るような存在、総理大臣や合衆国大統領でも、いなくなったらなったなりに世界は動いていく。世の中すべての人にいくらでも代わりはいる。
人間だけは他の生物と違うなにかがあるだろうか。私はそんな都合のいいことを思わない。単に猿を進化させたもので、人間も他の動物と大差ない。いや、人間が何か特別な存在だとしても、その人間ですら、毎日のように生まれ、死んでいく。他人が生まれて死んでいくことに、ひとつひとつ意味を考えていられない。
人が生きることに特別な意味はないのだろう。生きる意味があるとすれば、食物連鎖の一部になっている程度の理由で、期待したようなものではない。

そもそも、生きることに意味がなければならないなんていう決まりはない。
生きることに何か意味を求めるのは、神や幽霊と同じことなのだ。
人間はただ生物学的に誕生したものに過ぎない。死ねば土に帰り、分解され、他の物に生まれ変わる。
残念ながら、私やあなたがここに生きていることに意味はない。ないものを信じている。信じたいのかもしれないが、神や幽霊と同じように現実を冷静に見てみると良い。宗教的に信じるのは構わないが、物質的には特別な事象はない。

生きることに意味がないとすれば、意味のないことを続けるより死んだらいいのだろうか。
別に死ななくてもよいと思う。生物には生存欲があるし、死ぬのは楽ではない。死ねば悲しむ人がいるかもしれない。
心配しなくても、いずれは死ぬ。
ただ、正しいことをし、やりたいことをやって、生きていけばそれでいいのではないかと思う。

中川淳一郎氏の「ウェブはバカと暇人のもの」を読んだ書評というか感想

「ウェブはバカと暇人のもの」なんて本を見つけた。結構有名な本のようだが、こんなことを言っている本があるとは知らなかった。
著者の中川淳一郎氏に興味をもったので、「今ウェブは退化中ですが、何か? クリック無間地獄に落ちた人々」という本も読んでみた。

これら書籍の内容には、感情的な表現も多々見られるが、ほぼ共感できるし、意味は理解できる。
どのような内容かは、検索すればいろんなサイトが出てくるので、あまり書かないが、インターネットを全面的に肯定するものではなく、あえて否定的な見方でも書いたものだ。
特にウェブサービスの提供サイドに立った経験をしたことがある人ならば、よく分かる内容だと思う。
このような視点で見ている人がちゃんと実在することを明確に知ったことは、私にとって救われたような気持ちだ。
この著者はけっこう強気に書いていて、あまり弱音を吐かないだろうが、私は正直言って、インターネットのユーザーには失望した。ウンザリきている。現在は、それを通り越して、割り切るようにしているだけだ。
割り切るというのはインターネットユーザーのことをどうせバカ…というと言葉は悪いのだが、期待できない存在だと疑ってかかっていることだ。あきらめながらインターネットユーザーに接するというのは、本当は楽しくない。悲しい気分だ。だが、仕方がない。

この書籍は、インターネットのことを批判的ともとれる内容で書かれている。その舞台となるインターネット上で見られる感想では当然反感を買われることになる。
たとえば、「自分がウェブで金をもらう立場のくせに、そのウェブを批判している」という失笑のようなものがある。
著者は、自分がインターネットの中に身を置いているからこそ、あえて自分のフィールドを批判しているのだ。自分のことを良いと言っていては手前味噌になってしまう。
そのような、断るまでもなく分かっていることですら、指摘されてしまうということに痛々しさを感じてしまう。
インターネットの中にいる著者が、インターネットを厳しい目で見ているのは、インターネットの中にいる人だからこそ。そういう理念なのはあらためて書き表すまでもなく分かりきっている。それにもかかわらず、「おまえはインターネットから稼いでいるだろうが!」というピントはずれな指摘には、涙が出そうだ。
そんなことだから、続編的な存在の「今ウェブは退化中ですが・・・」という本では、「いや、だからインターネットの中にいるからこそインターネットの汚点を書いてんのでしょ」みたいなことを長々と説明したり、いちいち反論を想定して断りを入れるのはもう嫌だ、と釘を刺さなければならなくなっている。
思慮深さどころか、ほんの少しの想像すらできない。薄い表面しか見えない。リンゴの皮が赤だから、中まで赤色だと思っているように。
もっとも、そのようなことをいう人は、自分の非は認めてはいけないというような価値観なのかもしれないし、そもそも本質的なことへの意見ではないので、なんでもよいのだが、想像を絶する無思慮ということだけだ。

最近、日本周辺の一部の島をめぐって領土問題が起こっている。それに例えて言うなら、とにかく日本の領土だと主張するだけで、根拠を聞いても話がまったく通じないような人達。根拠は自分サイドのメリットのみで、洞察がない。
領土問題について主張する人の中で、問題になっている領土が、相手国の主張を理解した上で、国際法や歴史的に見て、日本の領土であると論じることができる人がどれくらいいるだろうか。私はできない。私が不勉強なだけならいいが、本当のところ、学者か、よほど勉強している人でなければ、しっかりとした根拠をもって日本の領土だと主張できる人はなかなかいないのではないだろうか。それは日本側の立場でなく、相手国の国民もそうだろう。
知らないのに主張しているとしても、こう言うならまだいい。「領土が自国のものであれば、都合がいい。正直言って、難しいことは分からんが、自国にとって有利な方を主張するだけだ」。そう開き直っているのなら、ある意味問題ない。いや問題ないことはないとしても理解できんでもない。そうではなく、自分の熟考で正当性を確信しているのでもないのに、まるで正当であることを知っているかのように真顔で主張されるから、頭が痛い。

こういう人達とは、どうやっても会話が成立しない。論理的に話ができない。自分都合だけの意見でしかない。なにを言っても無駄でイライラする。できることは、なるべく早く気づいて相手にしないことだけだ。

変な人はインターネットの一部だけで、大多数はまともな人達だと思われるかもしれない。
インターネットに限らず、世の中のほとんどの人は、いちおう善人だ。インターネットにいる人達も同じだろうと思う。どこにでもいる普通の人だ。だが、実は、その普通の人こそが、あまり賢くない張本人だと思う。

日本人の全員が大学を卒業しているわけではない。どちらかと言えば大卒は少数派だ。そういう私自身も大学を出ていない。私は、学歴と頭の良さが一致するとは思っていないし、頭の良さと人間性は別だと思っている。しかし、世の中の人が知的な人ばかりではないということを示唆することのひとつだと思う。社会で働く人達も知的労働者ばかりでなく、高度な知能を必要としていない職業も多い。
感覚的、感情的な判断で生きている人ばかりで、日常的に逐一頭を働かせる人は多くない。

インターネットを利用している人の目的は、調べ物をしたり、コンテンツを楽しむことで、ほとんどの人は見るだけ。投稿や発言はしない。古い言葉だが、ROMと呼ばれる人達が大多数だ。このブログでも、今日現在、アクセス数は3万近くあるが、コメントは一件もない。通常、インターネットで発言する人の影には、数百倍、数千倍の見ているだけの人が隠れている。
だから、インターネットで発言するわずかな人の言うことをとって、すべての人の意見とは言えない。一部のおかしなことを言う人を見て、インターネット全体が変人ばかりだと決め付けることはできない。
それはある程度正しいと思うのだが、私はそうでもないとも思っている。インターネット上の発言を見て、「こいつら自分都合の浅はかなことばっかり言ってんなあ」と思いながら冷静に見ている人も中にはいるだろうが、実は、浅い発言と同じような考え方の人もかなり多いのではないかと感じている。
その理由は、アクセス解析だ。自分のサイトのアクセス解析を見れば、たとえ発言しない人達でも、どんな考えを持っているかを伺い知ることができる。
どのページをどれくらいの時間見ているか。どのリンクをクリックしてページを遷移しているか。どういうキーワードで検索してやってきたか等、アクセス解析に表れる。訪問者はなにかを投稿しているつもりはないし、誰にも見られていないと思っているだけに、とても正直な動きをする。アクセス解析の記録は嘘をつかない。
日々、アクセス解析の内容を見るにつけ、変な人は必ずしも一部の人達だけでないことが分かってしまう。

考えてみれば、賢い人が少ないのは当たり前。
もしも、あなたがそれなりに学がある人だとすると、あなたは稀な人だ。
人の知的階層を図示したとすれば、ピラミッド型になるだろう。頭の良い人ほど頂点に近く、人数は少なくなっていく。ピラミッドの底辺に近づくほど人数が飛躍的に増加する。世の中のほとんどの人は、それほど高い知能を持っていないのが現実だ。頭の良くない人が多いのは当前で、頂点に近い人から見れば、あまりにも程度が低い人が多く見えてしまう。
インターネットでは、そういう普通の人の浅い考えによる思いつきがフィルタされることなく出てしまう。その結果、粗雑な発言ばかりで埋め尽くされてしまう。

今回取り上げた書籍の著者も、本心はインターネットを残念に思っていて、悪く言いたいわけではないのだろう。
インターネットの汚点を言って、喜んでいるのではなく、悲しんでいるのだ。
しかし、今のところ、どうにもならない。だから、インターネットとは上手に接した方がいいと言っている。

あきらめるしかない。冷めた考え方で対処するしかない。悲しいが今の私に近い気がする。