2017年5月26日金曜日

「おもてなし」という言葉に違和感 「おもてなし」と「おせっかい」は紙一重

ずいぶん前の話ですが、東京オリンピック誘致のためのスピーチで滝川クリステルさんが「おもてなし」という言葉を使って日本でのオリンピック開催をアピールしていたのをテレビで見たことがあります。彼女の容姿や話し方から感じる好印象から影響を受けてか、それ以降「おもてなし」という言葉を多くの場面で見かけるようになったような気がします。
しかし、そうした言葉もあまりに目にする機会が多くて、乱用されるようになれば、当初のありがた味が薄れて安っぽく感じるようになってきました。日本人自らが、日本はおもてなしのある国だと自分で主張しているように見えるのです。おもてなしというのは、する側が主張することではなく、される側が感じればよいことで、頼んでもいないことをやって親切にした気になって、恩着せがましくしても、相手はおせっかいに感じます。
本性はおもてなしの心意気を持っているわけではないにもかかわらず、おもてなしを演じるというのも滑稽に見えます。本来は、おもてなしという言葉を言わずとも、自然体で相手を気遣うことができているような人が、結果としておもてなしのあるふるまいとなっていて、また、恰好をつけているナルシズムな気持ちがあるのではなくて、はたからみているとスマートに見えるようなものなのではないかと思います。

どうであれ、おもてなしという意識を持つことによって結果として人が親切にふるまう風潮になるのであればそれでいいのではないかということもありますが、日本人の古くからある民族性としてのおもてなしという意味は、ちょっと無理して親切を演じるのではなくて、他人からどう見られているかを意識する必要はなく、素の状態で当たり前にできていなければ、本当のおもてなしの心というのとはちがうような気がします。

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