2017年6月13日火曜日

ソースとしての信憑性に弱いインターネットの記事

古い話だが「日本死ね」と書かれたブログだったか、ツイッターだったかが、国会で取り扱われたことがある。保育園に自分の子供を入園させることができない状況である日本に対して文句を言っているものである。
それはいいとして、思うのがインターネットのブログやツイッターに投稿された一般の人が書いた投稿というのは、特に事情がない限りはあまり特別に扱う必要はない。このブログもそうである。一個人が適当なことを書いているだけのものであり、なんとでも書くことができるし、責任もない。そのようないいかげんなものをひとつの事例として国会で取り上げるというのは違和感がある。

例えば、
「太陽は西から上る。これは絶対に全世界的に普遍的で正しいことだ。」
と、このようにインターメットには嘘を簡単に書くことができる。昇るではなく上るという誤字も間違ったまま書くことができる。そして、ご覧のとおり削除されることも訂正されることもない。これを読んでいる方も、その気になれば、同じようにいくらでもインターネットに適当な嘘八百を書くことができる。こんな情報を信用できるだろうか。信用できるわけがない。
実のところ、それはインターネットに限らないし、個人が書いた記事だけの話でもないのだが、インターネットの個人の記事は特に信用できない。わざわざ間違ったことを書かないだろうという性善説による期待はできるが、裏付けはない。

ひょっとすると、インターネットには、正しいことを書かないと、問題になることがあると考える人がいるかもしれない。例えば名誉棄損とか営業妨害等だ。だから責任のある記事が書かれなければならないと思われる人がいるかもしれない。
だが、そのような責任が伴うのでは、誰もインターネットに気軽に投稿できないし、個人の投稿に対していちいちそのような責任を求めるのは現実的ではない。一個人が十分な裏付け取材をして、個人的な感情や思い込みがないよう精査してから投稿するなんてことはしない。思いついたことを適当に書いているだけだ。
インターネットは、個人で気軽に投稿できる仕組みなので、望む望まざるにかかわらず、そうならざるを得ない。

寿司屋のチェーンを経営している会社が、インターネットの記事に対して裁判を起こしたことがあった。記事が名誉棄損や営業妨害になるということだ。当然ながらそのような裁判を起こしても意味がない。その案件は記事内容が事実かどうかということも判断材料としてあったようだが、仮に事実でないことを書いたとしても、インターネットの記事に対していちいち事実と異なるからといって裁判をすること自体ナンセンスである。よほどの悪意があるとか、なにか特別な事情があればどうか分からないが、ほとんどの場合においてはありえない。
インターネットに対して、いい加減な記事を書いても罰せられないという意味ではない。それ以前に、インターネットの情報を個人が無責任に書いているのは、はなから常識だ。100%信用できないのは周知の事実である。でたらめかもしれないと誰でも分かっている記事に対して、でたらめなことを書くなと言うようなものだ。
仮に間違ったことや非難、批判がインターネットに書かれているからといって、誰もそれを真に受けていない。あくまでひとつの意見として参考にするだけで、様々な可能性のひとつであるだけである。

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