2012年9月21日金曜日

スピードラーニングとロゼッタストーン 口コミで評判の教材の効果

先日JAFから送られてきた会報誌を見ていると、スピードラーニングという英語教材の広告がありました。
先日の記事でロゼッタストーンの宣伝について、物言いを付けましたが、スピードラーニングの広告もなかなか笑わせてくれます。
絵に描いたような典型的なストーリー展開が書かれています。
スピードラーニングというのは、音声をひたすら聴き続けることで英語学習ができる教材のようなのですが、それを聴き続けていたら、ある日、自然に口から英語が出てくるようになっていたという、いかにもありがちな夢物語が書かれています。

バカバカしい。ありえません!

いやいや、100%ないとまでは言ってはいけません。しかし、そのようなことがあるとすれば非常に限られた条件下でしょう。はじめから英文法が相当に分かっていて、発音もある程度できていて、ほとんど話せる寸前まで英語力があるような状況です。
これは多くの人が期待する学習効果とは程遠いものです。

英語と日本語は言語体系がぜんぜん違います。
単語は、意味が一対一で対応しているわけではありませんし、文法はまったく異なります。口からの音の出し方も日本語とはことごとく違います。
はじめのうちの英会話は、日本語で言葉を思いついて、頭の中で該当する英語に翻訳します。
例えば「これを食べてもいいですか?」を英語で言えばどうなるでしょうか?
直訳すれば
「Is this a good thing to eat?」のような感じです。ぎこちないです。
実際は
「Can I eat this?」の方が自然です。日本語に逆直訳すると
「私はこれを食べることができますか?」
になってしまい、これもちょっと不自然な言い回しになってしまいます。

「これを食べてもいいですか?」を、あなたはすぐに英語にできましたか?
あなたができるか、できないかが論点ではないので、それはどっちでもいいのですが(←なら聞くな)、このような簡単なことだったとしても、はじめは絶対に口から出てこないということを言いたいのです。
はじめは、言いたい気持ちがあっても、「あ~…」とか「え~…」とか言いながら、考えてからでないと言葉がでません。英語でどのように言うか分からないからです。

いちいち日本語を英語に翻訳することなく、はじめから直感的に英語で言えるようになるには、英会話で1回や2回、フレーズを使っただけでは無理です。
実際の生活の中で繰り返し話すことで、自分のものとして定着します。

聞いただけでできるようになる。私なんかはそんな天才ではありません。
「自動車の運転の仕方を見たり聞いただけでできる」「包丁の使い方を見たり聞いただけでできる」
そういうのと似たような、非現実的な話だと思います。
英会話は修練です。壊れたカタコトの英語からはじめて、少しずつ使えるフレーズが増えていきます。いきなりパーフェクトからスタートしません。
自動車の運転もはじめのうちはできませんが、教習所で安全なレベルまで練習し、日常生活で運転をしていくなかで、徐々にうまくなっていきます。包丁もはじめは軽快にトントンと扱えません。でも、いずれ誰でもできるようになります。それは練習するというよりは、実際にやっていく中で自然とうまくなっていくのです。
英会話であっても、実際に喋らないでうまくなるわけがないということは、普通に考えて分かることです。

私はロゼッタストーンという英語の教材を使っています。こちらにはスタジオやワールドで、生身の人間を相手に英会話をしてみることができます。
当然、英会話をしたことがない人間が、英語をまともに話せるはずがありません。ネイティブコーチを相手に現実にそうした予想できる悲劇が起こります。

ちなみに、ロゼッタストーンのネイティブコーチは日本語をまったく話せないので、英会話が成立しなかった時、多少の努力はしてみるものの、最終的にはどうすることもできません。つまり、その会話はスキップして、他の人に移るか、次の課題へ進むしかありません。
たとえそうであっても、現実に自分の口から英語を話す訓練をする機会があることは、圧倒的な効果があると思います。
「How is the weather today?」と聞かれて
はじめは「あわあわあわ…」となり、次は「お~、え~、サ、サニー」、そのうち「イッツ、サニ・・・いやクラウド・・・クラウディー」となっていくのです。失敗を繰り返して上達していきます。何回もがっくりしながら成長していきます。

ロゼッタストーンの宣伝をしたいわけではないので、それは置いとくとしても、実際に会話で使わなければ英会話をできるようにならないという当たり前の話です。
う~ん・・・英語を日常で使う環境にある人であれば、スピードラーニングを聞くことで、いろんなフレーズを知ることができたり、聞いたことがある似たフレーズを再リスニングできて、意味を理解することの反復練習になったりするので、役に立つことがあるのかもしれません。
現実的な話として、本当の意味で英語を話せない人が、話す練習をすることなく、話すことができるようになるというのは、ありえません。

2012年9月13日木曜日

質問サイトや掲示板で見かける痛ましい6つのパターン

インターネットの質問サイトや掲示板で見かける質問投稿の、イタい事項を6つ挙げます。

・「初心者なので、やさしく教えてください。」
インターネットの掲示板や質問サイトで見かける典型的な痛ましいキーワードの代表が「初心者」である。
質問文中に質問者が「初心者」であることの断りを入れるのを多く見かける。
回答しようとする者にとって、この「初心者」という文言は免罪符として使っているように受け取られることがある。質問者にそのような意図はなく、勘違いや、無作法があるかもしれないことの、緩衝として機能することを期待して、むしろ回答者への気遣いのつもりで使うのかもしれない。しかし、あらかじめ不慣れであることを宣言して、いい加減な行動をした時の盾にしようとしていると、回答者側は感じることがある。

それに、初心者というのが、何に対する初心者なのかが分からない。質問している事項について知見が少ないのか、質問という行為自体が不慣れなのか。まあ、どちらにしても質問内容に関係ないことであれば、いらない。

もちろん、初心者であることを付け加える必要性があるのであれば、書くべきだ。
できれば「初心者」という単語ではなく、具体的な表現で伝える方がよいだろう。例えば、以下のようにするのも方法だ。
「はじめてルーターを買いました。」
「XXXというサイトの通りに作業をしています。」
これらは、どの程度の初心者であるかを伝えることになるし、回答者は状況に応じた配慮ができる。

・「何回やってもできません」
数回やってできなければ、状況が変わらない限り、同じ事をもう一度やっても結果は変わらない可能性が高い。
例えばウェブサイトのリンクをクリックして、正常なページが表示されなかったとする。ブラウザの「戻る」機能で戻って、もう一度リンクをクリックしなおしても、やっぱり表示されない。同じ事をあと、2~3回やってもいいと思うが、おそらく状況は変わらないだろう。
そういうときは、いったん手を止めて、他の手を考えるのが賢い。ブラウザを再起動したり、別のブラウザやパソコンを使ったり、時間を変えてみることもできる。
原因を取り除かなければ、何回やっても同じ結果になるのは当たり前で、同じ事を何回もやったことを訴えて癇癪を起こすよりも、何をやってうまく行かなかったのか、やったことを列挙して質問する方が有用だ。

・状況を伝えない。
できないという事実だけで、どのようにできないのか状況が分からない質問を見る。
「XXXが起動しません。教えてください。」
このような、ほとんど情報のない短文だ。
起動しないといっても、どのようになるのかが分からない。メッセージが表示されるのか、起動するがすぐ終了してしまうのか、まったく何も起こらないのか、状況が分かれば原因を考えるヒントになる。

・日本語がおかしい。文章で表現できない。
日本語の助詞の使い方が間違っているため、文章の意味が変わってしまっていたり、受け取り手は、それを解釈するのに一考要することがある。
だが、それなら、書こうとするだけましだ。
状況や、おこなったことを、文章の形で表現する能力を有していないと思われる場合がある。
それは文章が下手とか、語彙が少ないということではなく、文章に書き下すことができないという、純粋な作文能力の問題だろう。
箇条書きでも良いので、情報をたくさん提供することが重要だ。

文章が、ちゃんと書けない人は、私の実感としてけっこう多い。
若い人だけではなく、高齢者にも多い。

・変な略称や英語を使う。
「S/Wをワークさせましたが、N/Wが繋がりません。」
こういう、妙な言い回しや略語を使われることがある。格好をつけず、素直に
「ソフトウェアを動かしましたが、ネットワークに繋がりません。」
と書くほうが、意味がスムーズに通じる。
用語を知らなければ、平易な複数の言葉に置き換えて説明することもできる。
「画面でウィンドウの後ろに並んだ、ゴミ箱や、書類の小さい絵」と言えば、デスクトップアイコンであることが分かるだろう。

・画面の文言を変える
コンピュータソフトウェアやウェブサイト等、IT関連のことで質問する際に一番良い方法は、画面に出ているメッセージを、句読点、スペースを含む、一字一句を変えずに正確に書き写して質問することだ。ウェブサイトであれば、コピー&ペーストすると確実だろう。
引用したメッセージは、文章中の該当部分が転写されたものであることを示すために「」記号で囲むか、前後に改行を入れて一行で書くとより明確になる。

「ユーザー登録をクリックして、できませんと出てきました。」
ではなくて
「「ここからユーザー登録」をクリックすると、「ただいま、受付を中止しています。」と書かれたページが出てきました。」
と書く方が正確に伝わる。

回答者は該当部分を、そのままの言葉で探すことができるようになり、解釈を考える必要がなくなるので、ずいぶん楽になる。


以上、この手の話はまだまだあると思いますが、インターネットで何か質問するような時は、こうしたことも念頭に置くとよいでしょう。

RosettaStone スタジオ音声トラブル インチキ臭い広告

今日は、ロゼッタストーンについて、少々不機嫌な内容です。
先日、スタジオのスケジュール画面が出ないトラブルで記事を書きましたが、まあ、少しくらいの問題なら目をつむります。
あんまり度が過ぎると黙っていられません。

・音声トラブルに遭遇
今までスタジオで、出席者の声が聞こえないトラブルは、しょっちゅう見てきました。5~6回に一回は見ています。
ただ、自分の場合は一度もそのようなことはなく、今日まで平穏無事に過ごしてきました。この手の問題の原因は、たいていユーザー側にあるのがお決まりで、なにかの製品サポートをしたことがあれば分かると思いますが、ユーザーからうまく動かないという問い合わせが来たときというのは、「それはあんたのところの問題だろうが!」と言いたくなることが多いのです。
ですので、ロゼッタストーンで音声トラブルに遭っている人を見ても、ネットワーク速度かなにかのユーザー側環境の問題かもしれないと思っていました。
私のところは大手プロバイダーで光回線を使っているので通信速度は信頼できますし、ノートパソコンではなく、そこそこの性能を持ったパソコンです。環境的には十分ですので、すっかり安心しきっていました。

その日、スタジオに参加すると、いつも通りはじまりました。
しかし、どうも様子がおかしい。コーチに声をかけられて、こちらが返答しきらないのに、そのコーチは無視して次の人に話を移しました。その後、コーチからチャットで音声が聞こえない旨連絡され、サポートに連絡するよう言われました。
しかし、サポートは営業時間外のようです。
ブラウザを一度再起動して、再出席しましたが、結果は変わらず、こちらの音声が相手に聞こえていません。仕方ありません。その日はあきらめることにしました。

結局、原因は不明でしたが、その後は、スタジオに問題なく参加できています。
自ら経験してみると分かります。ヤル気満々でスタジオが始まって、そこではじめて参加できないことが判明するのは、けっこう手痛いです。
ロゼッタストーンに音声トラブルが多いことは分かっているので、冷静に笑っていられますが、トラブルが多いことを知らなかったら、そう簡単に納得いかないかもしれません。
なぜなら、ロゼッタストーンは予約制です。数日前に予約して、それを念頭に生活しています。たった50分間のことですが、そのために、予定を調整しています。スタジオ直前に予習して、さあ、いざ始まったと思ったら、そこではじめて参加できないことが分かる。自分の身に振りかかってみれば、いかにショックかが分かります。私はすでに何十回もスタジオを受けているので、リラックスしていますが、これが初期の頃だったら、がっかり感はもっとインパクトがあることでしょう。

ロゼッタストーンの音声トラブルは、たまにあるということではなく、もう何度も見てきています。これだけ頻繁に見るというのは、さすがにもう、ユーザー側の責任だけとは思えなくなります。
実質的にオンラインサービスを提供できていないとすれば、約束が果たされていません。被害を被った人は泣き寝入りで、ロゼッタストーンはお咎め無し。これを堂々と弁明するのは難しいのではないでしょうか。

・広告のその計算は実際的ではありません。
Amazonにロゼッタストーンストアというコーナーがあります。
そこで、ロゼッタストーンの宣伝広告を見ることができます。
その中にどうも納得出来ない部分を見てしまいました。


他社の英会話サービスを比較したコスト比較です。他社というのは「レアジョブ」のような気がします。それによると

ロゼッタストーン 177円 50分 ネイティブスピーカー
他社 161円 25分 フィリピン人講師

とのことです。
分単価に換算すると、他社が 6.44円/分 で、ロゼッタストーンが 3.54円/分 ですから、ロゼッタストーンが半額近いです。しかも、ロゼッタストーンは定価の79,800円で計算されたものなので、実売価格で計算すればもっと安くなります。加えてネイティブピーカー。これを見ればどう考えてもロゼッタストーンがお得です。

ん?本当にそうでしょうか?
ロゼッタストーンの計算では79,000円を15ヶ月分の日数(450日)で割っています。毎日欠かさず、初日から最後の一日まで出席した日数ということです。実際は毎日同じ内容のスタジオに出席していても飽きてきますから、450日ほとんどに出席するのは現実的とは思えません。
ロゼッタストーンの公式ホームページでは、一週間に一回、日曜日にスタジオに出席するモデルパターンを紹介しています(しかもこれでは12ヶ月で終了するとも書いてありますが)。


それで計算すると、7倍ですから、

1,239円 50分 24.78円/分 ネイティブスピーカー

と、当然、単価は一気に跳ね上がります。
もう少し頑張って、週3回出たとしても、約2.3倍ですから

407円 50分 8.14円/分 ネイティブピーカー

この日のAmazon価格は69,616円でしたので、こちらの金額で計算しなおすと

354円 50分 7.22円/分 ネイティブスピーカー

いずれにしても、もう他社と比較してコスト的な優位性は感じられません。
実際は15ヶ月経過する前に終了するでしょうし、他社はマンツーマンですが、ロゼッタストーンはグループレッスン。一人あたり換算では、これに数倍の係数を付加しなければなりません。
どうも無理のある比較広告にしか思えません。優位性の証明どころか現実的な線で計算しなおせば、かえって割高なことが分かり、墓穴を掘るようなものです。
なんでまた、こんなイカサマのような話で訴えないといけないのか。そんなにもがいて売らないといけないほど、値打ちのない商品でしょうか。
私はロゼッタストーンを使っていますし、有効な商品だと思っています。だけど非現実的な計算については、擁護できません。

ロゼッタストーンは、年中、切れ目ないほどキャンペーンを展開しています。いつでもキャンペーン中で、常にキャンペーン価格。Amazonや楽天では販売価格を、コロコロ上げたり下げたりです。
商売ですから、あの手この手で割安感を出そうとするのは分かります。しかし、実際的でない比較広告で買わせようとすることや、期限付きのキャンペーン価格で心理的に煽るやり方は、目先の売上ばかりを追いかけているように見えます。


ロゼッタストーンは、購入後のオンラインサービスが約束されることを期待して購入します。
先日のスタジオ予約不具合や音声トラブルによるサービス不履行、あやしい広告と不安定な価格設定による短期的な視点での営業姿勢。このような態度は、購入後のオンラインサービスが安定して提供されることを担保するには、信用を得られないでしょう。

半年やってロゼッタストーンは効果あったのか。返品する?

アメリカ英語版のRosetta Stone TOTALeをやり始めておよそ半年が経過しました。コースは半分以上進み、スタジオも50回以上出席しました。それで、少しは効果があったのでしょうか?
私は効果があったと思います。
ロゼッタストーンは、営業方法やシステムの不具合、価格等、不満な点も多々ありますが、ベースは良い教材なのです。パーフェクトとは言いません。足りないことはたくさんあります。だからと言って、学習するものがないわけではありません。
100%ではありませんが、0%でもありません。30%の学習効果があるとすれば、それを、70%足りないと言うか、30%効果があったと言うかの違いです。

価格並みに効果あるかどうかは、その人の語学レベルや使い方、それに金銭の価値観によります。すでにそこそこ話せる人には、あまり意味がないかもしれません。アルファベットも知らず、本当に語学力ゼロからではスタートラインにすら立てないかもしれません。スタジオに頻繁に出席できない人、TOEICや英検等の資格取得を目的としている人も期待した成果は得られないかもしれません。
しかし、中学校の初歩程度の英語を少し覚えていて、英会話を目的とするなら、とても効果があると思います。
私はまだ途中なので、最後まで行った時のことは分かりません。想像での話になりますが、最後まで言ったとしても英語がペラペラにはならないと思っています。ペラペラになるのはロゼッタストーンを卒業し、実際に外国人と話していく中で何年もかけて少しずつなっていくものだからです。
スタートを0、ペラペラを100とすれば、ロゼッタストーンは最初の10まで進めてくれます。ロゼッタストーンはそれが役割で、残りの90はこのレベルの学習教材の出る幕ではありません。実践的な練習で磨いていく場面です。
最初の10と言えど、その段階の人は会話ができないので、実践で練習するようなことはできません。その難しい最初の10をロゼッタストーンで、はじめることができます。

私は外国人と触れ合う環境になく、興味で英語を学習しています。英語を話す人は周囲にいません。でも、もしも英語を話す人が目の前にいたとしたら、どれくらいの会話ができるか考えてみると、日常的な事に関する意志を伝えることはできるレベルではないかと思います。
「昨日、おもしろい映画を見ました。」「これを食べたいですか?」「週末、どこに行きますか?」
日常の他愛ない話や、なにかの簡単な説明が、文法的に違和感があったとしても、意味はどうにか伝わる程度に話せるのではないかと思います。
ただし、本当の外国人の会話はまだまだついていけないと思います。
日本語で言うと、「昨日見た映画、むっちゃおもろいけど、3Dがぶわーとなって、なんか意味わからんかった」のようなカジュアルな言葉遣いを早口でされると、たぶん分からないと思います。これを「昨日、見た映画はおもしろかったです。3Dでしたので、意味が分かりませんでした。」と、簡単な文法、単語で、ゆっくり丁寧に言ってもらえれば分かる感じです。

あなたのレベルが、ロゼッタストーンの想定するレベルに合致すると思われるなら、挑戦してみてください。

2012年9月11日火曜日

なんのために生きているのか。生きる意味

私は、神や幽霊は、存在(実在)しないと考えている。
正確に言うと、神や幽霊の存在を言われても、それを認められるだけの証拠がない。納得のいく「確からしさ」すらない。存在を示すそれらしいものがなければ、現状においては、ないと考えるのが自然だ。それで何も問題ないし、それ以上追求する必要もない。

ところで、もし、あなたの目の前に幽霊が現れたとしたら、あなたはどうするだろうか?
テレビや映画でありそうなシーンのように、悲鳴をあげて怯えるだろうか?
子どもや女性はどうか知らないが、ある程度の大人の男性であれば、そういう反応とは少々違うのではないだろうか。
大人の男性は、なにも怖いものがないとまでは言わないが、暗闇程度でそれほど恐れるものでもない。

暗い山中で、半透明の人影が、あり得ないところに浮かんでいたとしたら、あなたはどうするだろうか?

私が思うに、まず、最初はそれがどういうものかをじっと観察するだろう。
それが幽霊らしきものだと思ったら、あなたの口から出るのは
「ギャ~~~~~~!!!」
ではなく、たとえば
「え~と・・・、すみません。これはどういうことですか?」
ではないだろうか。
幽霊が目の前に出たからといって、大人の男性がすぐに大声で悲鳴を上げるとは限らない。
はじめはなにかの冗談とすら思うかもしれない。

次に、注意深い人なら、確認できるポイントがたくさんある。
相手がこちらを視認できているのか。会話ができるか。まばたきはするか。服は来ているか。服や髪は風でなびいているか(空気との物理的接触が確認できるか)。3次元的に見えるのか。陰影はどちら方向についていて、光源はどこにあるのか(陰があれば光との物理的接触が認められる。自ら発光していれば、他の物を照らしているか)。
カメラを持っていれば、是非撮影したい。
本物だとしたら世紀の大発見だ。何事もなく帰ることができたなら、次はじっくり準備をしてから再訪して、存在を確かめたい。

しかし、残念ながら、そんなうまい儲け話はない。幽霊は存在しない。
私は、なにかの邪魔をしたいのでも、批判しているのでもない。幽霊や神は私にとって、感覚的にはサンタクロースと変わりないのだ。別に積極的に否定する必要はない。
言えることは、現状において、存在すると予想できるだけの事実に乏しく、存在しないと考えるのが自然だということだ。

突然、話は変わるが、最近、生きることに意味があるのか、ということに疑問を持つようになった。
そんなことを考えるのは、毎日が淡々と過ぎていくような日々を送っているからだろう。とりあえず何不自由なく生活しているものの、大きな夢もなく、むしろ現実に絶望感すら持っているからだ。
それで、「あ~あ、なんのために生きているのやら」というセリフが出てくる。

今更ながら、その答えが分かった。ようやく気がついた。
答えは「生きることに意味はない」だ。

地球上には、人間の他にも様々な生物が生きている。人間に一番近いのは猿。それから、犬、猫、鳥、魚、トカゲ、虫、微生物、植物・・・大量の生物が生きている。
地面を歩いているアリを見て、いちいち生きている意味を感じない。踏んづけて殺しても、世界を変える大事とは思わない。
私が死んでも、世の中なにも変わらない。世界中の大部分の人は私が死んだことを知ることもない。いなくなれば世界的に知れ渡るような存在、総理大臣や合衆国大統領でも、いなくなったらなったなりに世界は動いていく。世の中すべての人にいくらでも代わりはいる。
人間だけは他の生物と違うなにかがあるだろうか。私はそんな都合のいいことを思わない。単に猿を進化させたもので、人間も他の動物と大差ない。いや、人間が何か特別な存在だとしても、その人間ですら、毎日のように生まれ、死んでいく。他人が生まれて死んでいくことに、ひとつひとつ意味を考えていられない。
人が生きることに特別な意味はないのだろう。生きる意味があるとすれば、食物連鎖の一部になっている程度の理由で、期待したようなものではない。

そもそも、生きることに意味がなければならないなんていう決まりはない。
生きることに何か意味を求めるのは、神や幽霊と同じことなのだ。
人間はただ生物学的に誕生したものに過ぎない。死ねば土に帰り、分解され、他の物に生まれ変わる。
残念ながら、私やあなたがここに生きていることに意味はない。ないものを信じている。信じたいのかもしれないが、神や幽霊と同じように現実を冷静に見てみると良い。宗教的に信じるのは構わないが、物質的には特別な事象はない。

生きることに意味がないとすれば、意味のないことを続けるより死んだらいいのだろうか。
別に死ななくてもよいと思う。生物には生存欲があるし、死ぬのは楽ではない。死ねば悲しむ人がいるかもしれない。
心配しなくても、いずれは死ぬ。
ただ、正しいことをし、やりたいことをやって、生きていけばそれでいいのではないかと思う。

中川淳一郎氏の「ウェブはバカと暇人のもの」を読んだ書評というか感想

「ウェブはバカと暇人のもの」なんて本を見つけた。結構有名な本のようだが、こんなことを言っている本があるとは知らなかった。
著者の中川淳一郎氏に興味をもったので、「今ウェブは退化中ですが、何か? クリック無間地獄に落ちた人々」という本も読んでみた。

これら書籍の内容には、感情的な表現も多々見られるが、ほぼ共感できるし、意味は理解できる。
どのような内容かは、検索すればいろんなサイトが出てくるので、あまり書かないが、インターネットを全面的に肯定するものではなく、あえて否定的な見方でも書いたものだ。
特にウェブサービスの提供サイドに立った経験をしたことがある人ならば、よく分かる内容だと思う。
このような視点で見ている人がちゃんと実在することを明確に知ったことは、私にとって救われたような気持ちだ。
この著者はけっこう強気に書いていて、あまり弱音を吐かないだろうが、私は正直言って、インターネットのユーザーには失望した。ウンザリきている。現在は、それを通り越して、割り切るようにしているだけだ。
割り切るというのはインターネットユーザーのことをどうせバカ…というと言葉は悪いのだが、期待できない存在だと疑ってかかっていることだ。あきらめながらインターネットユーザーに接するというのは、本当は楽しくない。悲しい気分だ。だが、仕方がない。

この書籍は、インターネットのことを批判的ともとれる内容で書かれている。その舞台となるインターネット上で見られる感想では当然反感を買われることになる。
たとえば、「自分がウェブで金をもらう立場のくせに、そのウェブを批判している」という失笑のようなものがある。
著者は、自分がインターネットの中に身を置いているからこそ、あえて自分のフィールドを批判しているのだ。自分のことを良いと言っていては手前味噌になってしまう。
そのような、断るまでもなく分かっていることですら、指摘されてしまうということに痛々しさを感じてしまう。
インターネットの中にいる著者が、インターネットを厳しい目で見ているのは、インターネットの中にいる人だからこそ。そういう理念なのはあらためて書き表すまでもなく分かりきっている。それにもかかわらず、「おまえはインターネットから稼いでいるだろうが!」というピントはずれな指摘には、涙が出そうだ。
そんなことだから、続編的な存在の「今ウェブは退化中ですが・・・」という本では、「いや、だからインターネットの中にいるからこそインターネットの汚点を書いてんのでしょ」みたいなことを長々と説明したり、いちいち反論を想定して断りを入れるのはもう嫌だ、と釘を刺さなければならなくなっている。
思慮深さどころか、ほんの少しの想像すらできない。薄い表面しか見えない。リンゴの皮が赤だから、中まで赤色だと思っているように。
もっとも、そのようなことをいう人は、自分の非は認めてはいけないというような価値観なのかもしれないし、そもそも本質的なことへの意見ではないので、なんでもよいのだが、想像を絶する無思慮ということだけだ。

最近、日本周辺の一部の島をめぐって領土問題が起こっている。それに例えて言うなら、とにかく日本の領土だと主張するだけで、根拠を聞いても話がまったく通じないような人達。根拠は自分サイドのメリットのみで、洞察がない。
領土問題について主張する人の中で、問題になっている領土が、相手国の主張を理解した上で、国際法や歴史的に見て、日本の領土であると論じることができる人がどれくらいいるだろうか。私はできない。私が不勉強なだけならいいが、本当のところ、学者か、よほど勉強している人でなければ、しっかりとした根拠をもって日本の領土だと主張できる人はなかなかいないのではないだろうか。それは日本側の立場でなく、相手国の国民もそうだろう。
知らないのに主張しているとしても、こう言うならまだいい。「領土が自国のものであれば、都合がいい。正直言って、難しいことは分からんが、自国にとって有利な方を主張するだけだ」。そう開き直っているのなら、ある意味問題ない。いや問題ないことはないとしても理解できんでもない。そうではなく、自分の熟考で正当性を確信しているのでもないのに、まるで正当であることを知っているかのように真顔で主張されるから、頭が痛い。

こういう人達とは、どうやっても会話が成立しない。論理的に話ができない。自分都合だけの意見でしかない。なにを言っても無駄でイライラする。できることは、なるべく早く気づいて相手にしないことだけだ。

変な人はインターネットの一部だけで、大多数はまともな人達だと思われるかもしれない。
インターネットに限らず、世の中のほとんどの人は、いちおう善人だ。インターネットにいる人達も同じだろうと思う。どこにでもいる普通の人だ。だが、実は、その普通の人こそが、あまり賢くない張本人だと思う。

日本人の全員が大学を卒業しているわけではない。どちらかと言えば大卒は少数派だ。そういう私自身も大学を出ていない。私は、学歴と頭の良さが一致するとは思っていないし、頭の良さと人間性は別だと思っている。しかし、世の中の人が知的な人ばかりではないということを示唆することのひとつだと思う。社会で働く人達も知的労働者ばかりでなく、高度な知能を必要としていない職業も多い。
感覚的、感情的な判断で生きている人ばかりで、日常的に逐一頭を働かせる人は多くない。

インターネットを利用している人の目的は、調べ物をしたり、コンテンツを楽しむことで、ほとんどの人は見るだけ。投稿や発言はしない。古い言葉だが、ROMと呼ばれる人達が大多数だ。このブログでも、今日現在、アクセス数は3万近くあるが、コメントは一件もない。通常、インターネットで発言する人の影には、数百倍、数千倍の見ているだけの人が隠れている。
だから、インターネットで発言するわずかな人の言うことをとって、すべての人の意見とは言えない。一部のおかしなことを言う人を見て、インターネット全体が変人ばかりだと決め付けることはできない。
それはある程度正しいと思うのだが、私はそうでもないとも思っている。インターネット上の発言を見て、「こいつら自分都合の浅はかなことばっかり言ってんなあ」と思いながら冷静に見ている人も中にはいるだろうが、実は、浅い発言と同じような考え方の人もかなり多いのではないかと感じている。
その理由は、アクセス解析だ。自分のサイトのアクセス解析を見れば、たとえ発言しない人達でも、どんな考えを持っているかを伺い知ることができる。
どのページをどれくらいの時間見ているか。どのリンクをクリックしてページを遷移しているか。どういうキーワードで検索してやってきたか等、アクセス解析に表れる。訪問者はなにかを投稿しているつもりはないし、誰にも見られていないと思っているだけに、とても正直な動きをする。アクセス解析の記録は嘘をつかない。
日々、アクセス解析の内容を見るにつけ、変な人は必ずしも一部の人達だけでないことが分かってしまう。

考えてみれば、賢い人が少ないのは当たり前。
もしも、あなたがそれなりに学がある人だとすると、あなたは稀な人だ。
人の知的階層を図示したとすれば、ピラミッド型になるだろう。頭の良い人ほど頂点に近く、人数は少なくなっていく。ピラミッドの底辺に近づくほど人数が飛躍的に増加する。世の中のほとんどの人は、それほど高い知能を持っていないのが現実だ。頭の良くない人が多いのは当前で、頂点に近い人から見れば、あまりにも程度が低い人が多く見えてしまう。
インターネットでは、そういう普通の人の浅い考えによる思いつきがフィルタされることなく出てしまう。その結果、粗雑な発言ばかりで埋め尽くされてしまう。

今回取り上げた書籍の著者も、本心はインターネットを残念に思っていて、悪く言いたいわけではないのだろう。
インターネットの汚点を言って、喜んでいるのではなく、悲しんでいるのだ。
しかし、今のところ、どうにもならない。だから、インターネットとは上手に接した方がいいと言っている。

あきらめるしかない。冷めた考え方で対処するしかない。悲しいが今の私に近い気がする。

2012年9月9日日曜日

初めてのコンタクトレンズの処方箋を求めて眼科へ 装着練習

片方の目がぼやけて見えていて、少し前から眼鏡をかけ始めたのですが、使い始めると眼鏡というのはなかなかに邪魔なことが分かります。
ファッション目的で眼鏡をかけるのと違い、眼鏡をかけざるを得ないというところが困ります。人というのは、やらされるとやりたくなくなるものです。
眼鏡をかけていることを忘れてちょっと目もとを触ろうとして、指がレンズに触れてしまうことがあります。一度触ってしまうと指紋を拭かなければなりません。
寝転がったときは耳にかかるツルが邪魔になります。当然、眼鏡をかけたまま寝ることはできません。
レンズにゴミがつくので、毎日拭かなければなりません。面倒くさいです。
フレームは視界を狭くします。
スポーツで使うときは、眼鏡がずれやすく、汗で汚れます。視界が狭くなるのもスポーツでは不利だったり、危険だったりします。
度の入ったレンズというのは、眼球とレンズの間に数ミリから数センチの距離があることで、物が小さく見えるようになります。それで距離感が変わってしまいます。スーパーで買物をするとき、棚の物をつかむつもりが何もない空中をつかんだことがあります。
自動車の運転は、見え方が変わると車間感覚が狂うので、狭いところでの運転が不安になります。眼鏡をかけないときの視界のボケよりも、距離感が変わることの方が危険に思えます。

そのような眼鏡の欠点に気づくと、コンタクトレンズを使ったらいいんではないだろうかと考えるようになりました。
コンタクトレンズなら、視界が広いですし、ものが小さく見えるようになりません。目の周りに器具がないので、今までどおり顔に触れることや、寝転がることができます。
コンタクトレンズと言えば、容姿を考えて使う人が多いように思っていましたが、機能性という意味でも眼鏡に勝る便利な面があります。

もちろん、コンタクトレンズのリスクや欠点にも留意しなければなりません。
眼球に直接触れるものですから、知らず知らずのうちに目を傷つけてしまうことがあります。そのため医師による定期的な検査がかかせません。
装着や脱着は手を清潔にしたり、鏡が必要になったりします。長時間の装着はできません。特にたまにしか使わない人は、最大でも4~6時間程度の短い時間しか装着できません。
それにコンタクトレンズでは脱着の手間がかかるので、どのみち眼鏡は必要です。

先日、コンタクトレンズの処方箋をもらうために眼科へ行きました。
まず最初、コンタクトレンズをはめる前に医師の目で眼球を検査します。
問題ないと判断されると、視力を測定した後、コンタクトレンズの度数を決めます。
決定した度数のコンタクトレンズが看護婦さんの手で入れられます。
その後、コンタクトレンズの種類や注意事項、リスクについて念入りに説明され、コンタクトレンズを装着した状態で、もう一度医師のチェックを受けます。
最後に、コンタクトレンズを付けたり外したり、着脱練習をします。

私は毎日使わないので、1日使い捨てタイプのコンタクトレンズを選びました。


コンタクトレンズは小さなパッケージに一個ずつ入っています。
パッケージを開けて、液体に浸かったコンタクトレンズをすくい取ります。透明の液体に透明のコンタクトレンズが入っているので、あまり見えません。指を入れてすくい取ると、取り出すことができます。
人差し指の上に置いて、裏表を確認します。とても柔らかい素材なので裏返しになっていることがあります。裏返っているのは、コンタクトレンズの縁が反り返ったように見えることで分かります。
ソフトタイプのコンタクトレンズは指でつまみ持つことができないほど、極薄でふにゃふにゃです。指の腹に乗せている時は、なんとかお椀状の形状を保っていますが、ちょっとしたことでぺしゃんこに潰れます。潰れたら、液体に浸して、ほぐすことで形状を戻します。そのため、パッケージの液体は開封後も捨ててはいけません。
着脱には、両手を使います。
目の中が見えるように、鏡に20~30cmくらいまで顔を近づけ、両方の手でまぶたの上下をひっぱり押さえることで目を閉じられないようにしながら、片方の人差し指の上に乗ったコンタクトレンズを眼球の上に当てます。眼球に吸い付くように馴染めば、自然に装着できます。
取り出すときは、装着時と同じように両手で目を開いておいて、片方の手の人差し指と親指でつまみ取ります。
濡れた状態のコンタクトレンズは眼球の黒目の上に置くと、1~2秒でジワッと眼球に馴染んで張り付きます。もたもたしてコンタクトレンズが乾いてくると、眼球に付きません。その時はパッケージの液体に浸して濡らしなおします。
眼球にコンタクトレンズを置くというのは、指の上に乗ったコンタクトレンズを眼球に触れさせるということです。初めてであれば、眼球に触れるということ自体が怖いので、ついつい瞬きをしてしまいます。眼球の寸前にコンタクトレンズがある状況で瞬きをすれば、まぶたでコンタクトレンズをはさみ潰してしまいます(つぶれたら液体に浸してほぐし戻します)。そのため目をつむらないように上下のまぶたを両手の指でしっかり押さえておくことが重要になります。その方法は、左手の中指で上まぶたを押さえ、右手の中指で下まぶたを押さえます。
外すときは、黒目の上に乗ったコンタクトレンズを親指と人差し指でつまみとります。これは指で眼球に直接触れることとほとんど変わりません。目についたコンタクトレンズを触ることなく何かの衝撃で弾き飛ばすようなものではありません。直接指で触れて取り出します。

何度か付けたり外したりして、練習します。
練習中は看護婦さんが横についていました。
この看護婦さんは見た目はそんなに悪くないのですが、笑わないし、セリフは敬語の棒読みで、まったくフレンドリーでなくて、なんか冷たい感じなのが、ちょっとあれでしたが、まあ、見た目が悪くない分いろんな患者さんがいるだろうし、ルーチンワーク化してしまっているのでしょう、きっと。

コンタクトレンズの装着と取り外しができるようになったら、ようやく許可がおります。
そのまま、そこでコンタクトレンズのセットを購入しました。30個入で約3000円しました。私は片目だけなので30回分ですが、両目の人は15回分ということになります。

装着感ですが、意識すると異物感を感じます。異物感というのは眼球では感じていないと思います。眼球とまぶたの間にあることで、瞬きした際にまぶたの縁が眼球上にあるコンタクトレンズの厚さ分の段差を感じるのではないかと思います。コンタクトレンズの厚さといっても極薄ですが、まぶたの感覚が敏感なので、コンタクトレンズの存在を感じてしまうのだと思います。
それでもうまく入ったときは、コンタクトレンズの存在をまったく感じません。このうまく入った時というのはどういう時か分からないのですが、あまり何度も失敗せずスムーズに入った時のような気がします。この状態では自分でもコンタクトレンズが入っていることが分かりません。鏡を見てコンタクトレンズを目視することで、存在を確認できます。

コンタクトレンズは視界が広く、邪魔なフレームはなく、見え方も自然です。
そんな素晴らしいコンタクトレンズですが、リスクや使い方に注意を要するので油断は禁物です。
しかし、眼鏡では不便な状況ではとても有用に使えることが分かりました。