動画編集ソフトが必要になって、どういうのがいいか探していたところ、PowerDirector 15というのが売れているらしいことを見つけた。PowerDirectorと言えば昔にちょっと使ってみたことがあって、ものすごく使いにくかった記憶がある。とにかく、やたら落ちまくる。なにかひとつ編集するだびにセーブしておかなければならなかった。機能も十分とは言えず、歯がゆい思いをすることが多かった。
他にはEDIUSというのも使ったことがあって高機能でよかったのだが、ちょっと値段が高い。でも、やりたいと思ったことがちゃんとできるソフトだった。PowerDirectorも売れていて、インターネット上の評判も悪くなさそうなので、以前の悪いイメージを気にしつつも、値段はそれほどでもないし買ってみることにした。
PowerDirector 15にもいくつか種類があって、一番高いUltimate Suiteというのを買った。高いといっても1万4千円程度。これには、動画や音に様々な効果を付けたりするソフトも付属されている。だからちょっと高い。こうしたソフトを使えば、単なる動画編集にとどまらない変わった動画を作ることができる。ただし、使いこなすには、それなりの才能も必要だろう。
PowerDirectorを使ってみた感想としては、15作目ともなると完全に安定している。いくつか動画を作ってみた感じでは、落ちたことは一度もない。
動作も軽快とは言わないが、問題ない。例えばなにかクリックして瞬時に動作しない場合があっても、マウスから手を放すほど待たされることはない。エンコードも十分速い。
動画をトリミングして、並べて、音を付けて、タイトルを作るという基本的なことに関して、まったく普通に使える。動画をトリミングするにも、ちゃんと一コマずつ開始と終了コマを指定するような細かいこともできる。
トラックも100トラックまで作れるので十分だし、音やタイトルも並み以上の機能で編集できるようになっている。加えて、動画の手ぶれ補正や動画サイトへのアップロードといった付加機能もいろいろある。
ここまでちゃんと使えるのなら、素人が動画を編集するには十分だ。昔の基本的なこともまともにできなかった時代があっただけに、当たり前のことが当たり前に使えるようになっていることにちょっと感動した。でもその当たり前のことができるというのがとても大事だ。
たぶん、VideoStudio等の他社の同価格帯の製品でも同じようなものだと思うが、このクラスの動画編集ソフトで普通に使えるようになっていることを知って、浦島太郎状態になってしまった。
2017年6月13日火曜日
運送会社の待遇改善は必要だがサービス向上努力が不要ということではない
ヤマト運用からメールが来た。6/19から時間帯指定の区分が変更されるようだ。
インターネット通販をはじめとした物流量の増加と、サービス品質への高い要求から配達員に負荷がかかりすぎることが問題になり、そのことに対して利用者の理解もある程度得られていることから、サービスや運送料の見直しを行っているようだ。
まず、不払い残業等の法令違反は問題外であり、そのような点は直ちに改善する必要がある。低価格や便利なサービスは、ルールに乗っ取ってやるのが前提であり、ルール違反をしてそれを実現していたのでは意味がない。そのようなものは反則であり、サービスとは言わず、不正と言う。ただのブラック企業だ。
さらに再配達を何度でも無料でやっているのは、過剰サービスではないかという指摘がある。配達時間が細かく指定できるというのも、サービスが良すぎるという指摘がある。海外と比較した場合、考えられないようなサービスらしい。
配達員等の努力によって、そうしたサービスが提供されていることは、ありがたいことだと思うが、ただ、私は、海外と比較してサービスが良すぎるからサービスの質を下げていいということになると、それはどうかと思う。
もちろん、単純にサービスの受益者としてはサービスのレベルが高い方がありがたいということもあるのだが、もっと一般的な話として、企業努力や競争原理によってサービス等を向上していくのは悪いことではないからだ。
例えば、海外の配送業者が日本企業のサービスレベルが低いところを見て、そこに付け込んで独自のアイディアで参入してくるかもしれない。いくら配達員の負担があると言っても、よりよいサービスの提供を実現できる企業が登場したら、消費者は正直な選択をするだろう。また、高いサービスのノウハウは、海外進出にも有利だ。
宅配ボックスの設置にも言える。高いサービスを要求しなければ、そもそも宅配ボックスの必要性は考えもしないかもしれない。だが、宅配ボックスは配送業者、利用者双方にとってメリットがある。高いサービス水準の要求は、そうしたアイディアや工夫を生み出すもとになる。便利なサービスを作れば日本発として海外へも波及させられる。海外のサービス水準が低いから、日本のサービス水準も落としたらいいのではなく、逆にサービス水準の低い海外に日本の高いサービス水準を輸出するくらいでいい。
あくまで法律を守り、配達員を大切な社員として維持した上で、サービスの向上を目指すのは悪いことではない。
インターネット通販をはじめとした物流量の増加と、サービス品質への高い要求から配達員に負荷がかかりすぎることが問題になり、そのことに対して利用者の理解もある程度得られていることから、サービスや運送料の見直しを行っているようだ。
まず、不払い残業等の法令違反は問題外であり、そのような点は直ちに改善する必要がある。低価格や便利なサービスは、ルールに乗っ取ってやるのが前提であり、ルール違反をしてそれを実現していたのでは意味がない。そのようなものは反則であり、サービスとは言わず、不正と言う。ただのブラック企業だ。
さらに再配達を何度でも無料でやっているのは、過剰サービスではないかという指摘がある。配達時間が細かく指定できるというのも、サービスが良すぎるという指摘がある。海外と比較した場合、考えられないようなサービスらしい。
配達員等の努力によって、そうしたサービスが提供されていることは、ありがたいことだと思うが、ただ、私は、海外と比較してサービスが良すぎるからサービスの質を下げていいということになると、それはどうかと思う。
もちろん、単純にサービスの受益者としてはサービスのレベルが高い方がありがたいということもあるのだが、もっと一般的な話として、企業努力や競争原理によってサービス等を向上していくのは悪いことではないからだ。
例えば、海外の配送業者が日本企業のサービスレベルが低いところを見て、そこに付け込んで独自のアイディアで参入してくるかもしれない。いくら配達員の負担があると言っても、よりよいサービスの提供を実現できる企業が登場したら、消費者は正直な選択をするだろう。また、高いサービスのノウハウは、海外進出にも有利だ。
宅配ボックスの設置にも言える。高いサービスを要求しなければ、そもそも宅配ボックスの必要性は考えもしないかもしれない。だが、宅配ボックスは配送業者、利用者双方にとってメリットがある。高いサービス水準の要求は、そうしたアイディアや工夫を生み出すもとになる。便利なサービスを作れば日本発として海外へも波及させられる。海外のサービス水準が低いから、日本のサービス水準も落としたらいいのではなく、逆にサービス水準の低い海外に日本の高いサービス水準を輸出するくらいでいい。
あくまで法律を守り、配達員を大切な社員として維持した上で、サービスの向上を目指すのは悪いことではない。
ソースとしての信憑性に弱いインターネットの記事
古い話だが「日本死ね」と書かれたブログだったか、ツイッターだったかが、国会で取り扱われたことがある。保育園に自分の子供を入園させることができない状況である日本に対して文句を言っているものである。
それはいいとして、思うのがインターネットのブログやツイッターに投稿された一般の人が書いた投稿というのは、特に事情がない限りはあまり特別に扱う必要はない。このブログもそうである。一個人が適当なことを書いているだけのものであり、なんとでも書くことができるし、責任もない。そのようないいかげんなものをひとつの事例として国会で取り上げるというのは違和感がある。
例えば、
「太陽は西から上る。これは絶対に全世界的に普遍的で正しいことだ。」
と、このようにインターメットには嘘を簡単に書くことができる。昇るではなく上るという誤字も間違ったまま書くことができる。そして、ご覧のとおり削除されることも訂正されることもない。これを読んでいる方も、その気になれば、同じようにいくらでもインターネットに適当な嘘八百を書くことができる。こんな情報を信用できるだろうか。信用できるわけがない。
実のところ、それはインターネットに限らないし、個人が書いた記事だけの話でもないのだが、インターネットの個人の記事は特に信用できない。わざわざ間違ったことを書かないだろうという性善説による期待はできるが、裏付けはない。
ひょっとすると、インターネットには、正しいことを書かないと、問題になることがあると考える人がいるかもしれない。例えば名誉棄損とか営業妨害等だ。だから責任のある記事が書かれなければならないと思われる人がいるかもしれない。
だが、そのような責任が伴うのでは、誰もインターネットに気軽に投稿できないし、個人の投稿に対していちいちそのような責任を求めるのは現実的ではない。一個人が十分な裏付け取材をして、個人的な感情や思い込みがないよう精査してから投稿するなんてことはしない。思いついたことを適当に書いているだけだ。
インターネットは、個人で気軽に投稿できる仕組みなので、望む望まざるにかかわらず、そうならざるを得ない。
寿司屋のチェーンを経営している会社が、インターネットの記事に対して裁判を起こしたことがあった。記事が名誉棄損や営業妨害になるということだ。当然ながらそのような裁判を起こしても意味がない。その案件は記事内容が事実かどうかということも判断材料としてあったようだが、仮に事実でないことを書いたとしても、インターネットの記事に対していちいち事実と異なるからといって裁判をすること自体ナンセンスである。よほどの悪意があるとか、なにか特別な事情があればどうか分からないが、ほとんどの場合においてはありえない。
インターネットに対して、いい加減な記事を書いても罰せられないという意味ではない。それ以前に、インターネットの情報を個人が無責任に書いているのは、はなから常識だ。100%信用できないのは周知の事実である。でたらめかもしれないと誰でも分かっている記事に対して、でたらめなことを書くなと言うようなものだ。
仮に間違ったことや非難、批判がインターネットに書かれているからといって、誰もそれを真に受けていない。あくまでひとつの意見として参考にするだけで、様々な可能性のひとつであるだけである。
それはいいとして、思うのがインターネットのブログやツイッターに投稿された一般の人が書いた投稿というのは、特に事情がない限りはあまり特別に扱う必要はない。このブログもそうである。一個人が適当なことを書いているだけのものであり、なんとでも書くことができるし、責任もない。そのようないいかげんなものをひとつの事例として国会で取り上げるというのは違和感がある。
例えば、
「太陽は西から上る。これは絶対に全世界的に普遍的で正しいことだ。」
と、このようにインターメットには嘘を簡単に書くことができる。昇るではなく上るという誤字も間違ったまま書くことができる。そして、ご覧のとおり削除されることも訂正されることもない。これを読んでいる方も、その気になれば、同じようにいくらでもインターネットに適当な嘘八百を書くことができる。こんな情報を信用できるだろうか。信用できるわけがない。
実のところ、それはインターネットに限らないし、個人が書いた記事だけの話でもないのだが、インターネットの個人の記事は特に信用できない。わざわざ間違ったことを書かないだろうという性善説による期待はできるが、裏付けはない。
ひょっとすると、インターネットには、正しいことを書かないと、問題になることがあると考える人がいるかもしれない。例えば名誉棄損とか営業妨害等だ。だから責任のある記事が書かれなければならないと思われる人がいるかもしれない。
だが、そのような責任が伴うのでは、誰もインターネットに気軽に投稿できないし、個人の投稿に対していちいちそのような責任を求めるのは現実的ではない。一個人が十分な裏付け取材をして、個人的な感情や思い込みがないよう精査してから投稿するなんてことはしない。思いついたことを適当に書いているだけだ。
インターネットは、個人で気軽に投稿できる仕組みなので、望む望まざるにかかわらず、そうならざるを得ない。
寿司屋のチェーンを経営している会社が、インターネットの記事に対して裁判を起こしたことがあった。記事が名誉棄損や営業妨害になるということだ。当然ながらそのような裁判を起こしても意味がない。その案件は記事内容が事実かどうかということも判断材料としてあったようだが、仮に事実でないことを書いたとしても、インターネットの記事に対していちいち事実と異なるからといって裁判をすること自体ナンセンスである。よほどの悪意があるとか、なにか特別な事情があればどうか分からないが、ほとんどの場合においてはありえない。
インターネットに対して、いい加減な記事を書いても罰せられないという意味ではない。それ以前に、インターネットの情報を個人が無責任に書いているのは、はなから常識だ。100%信用できないのは周知の事実である。でたらめかもしれないと誰でも分かっている記事に対して、でたらめなことを書くなと言うようなものだ。
仮に間違ったことや非難、批判がインターネットに書かれているからといって、誰もそれを真に受けていない。あくまでひとつの意見として参考にするだけで、様々な可能性のひとつであるだけである。
2017年6月12日月曜日
50ccから125ccバイクに乗り換えて気が付いた危険なこと
以前50ccの原付バイクに乗っていたが、普通二輪の免許を取得したことで125ccのバイクに乗り換えた。エンジンの出力こそ上がったものの見た目は50ccの原付風だ。実際は一回りサイズが大きい。大きくなっても横幅はハンドルに手が届く範囲になるので、すり抜けも可能だ。
125ccになると、最高で80km/h程度出る。一般的な道路では80km/hまで出すことはないので、ほとんど問題がない。バイクは車体が軽い分加速が良く、信号待ちからの発進では車を大きく引き離すことになる。先日まで2000ccの車に乗っていて、それでスポーツモードに入れてアクセルをいっぱいまで踏めば、車の方が早いかもしれない。しかし、普段の運転でそのような燃費が極端に悪くなるようなことはやらない。通常の感覚の発進加速では、125ccバイクの方が圧倒的に速い。結果として、一般的な街乗りに関していえば、車より軽快でとても便利だ。
しかし、気が付かなかったし、今まで誰からも聞いたことのない盲点があった。誰もそのことについて言及しないので、そのことを書きたいためにこの記事を書いている。
125ccのバイクを運転していると、やたらと目の前に飛び出される目に遭う。それは自転車、原付、自動車、すべてが、いきなり目の前に飛び出してくるのだ。
道路の左の路地から原付バイクが左折合流して、走行している自分の目の前にいきなり飛び出してくる。それでブレーキ回避が必要になる。左端を走行中の自転車が、走行している自分の前でいきなり左端から右端へ進路変更する。それでブレーキ回避が必要になる。右折レーンで右折待ちをする車列の左を走行していると、右折待ちをする車列の中から、走行している自分の目の前にいきなり進路変更してくる。それでブレーキ回避が必要になる。そうやってやたらと、進路妨害をされるのだ。進路妨害というだけでなく、危険だ。以前の50ccの原付の時はそんなことはなかったが、125ccになるといつもそのような目に遭う。
なぜ、このようなことになるかというと、車体が小さい分、速く走れるからだ。自動車なら車線幅の大部分を占めてしまうが、バイクなら2台並走できるくらい余裕がある。余裕があって広々しているわけなので速度を出すことが可能だ。しかも加速がいいので、それを瞬時に実現できる。それは、自転車、原付、自動車の運転手の想像を超えていることで予想されていない。だから彼らには見えていないのだ。
信号待ちで発進をすると、バックミラーで見ると追いかけてくる車があっというまに小さくなって、あまりの車の遅さにびっくりする。それくらい125ccバイクは加速もトップスピードも速い。
このことは他の交通の運転手は気が付かないことなので、バイクの運転手側で十分に注意する必要がある。
125ccになると、最高で80km/h程度出る。一般的な道路では80km/hまで出すことはないので、ほとんど問題がない。バイクは車体が軽い分加速が良く、信号待ちからの発進では車を大きく引き離すことになる。先日まで2000ccの車に乗っていて、それでスポーツモードに入れてアクセルをいっぱいまで踏めば、車の方が早いかもしれない。しかし、普段の運転でそのような燃費が極端に悪くなるようなことはやらない。通常の感覚の発進加速では、125ccバイクの方が圧倒的に速い。結果として、一般的な街乗りに関していえば、車より軽快でとても便利だ。
しかし、気が付かなかったし、今まで誰からも聞いたことのない盲点があった。誰もそのことについて言及しないので、そのことを書きたいためにこの記事を書いている。
125ccのバイクを運転していると、やたらと目の前に飛び出される目に遭う。それは自転車、原付、自動車、すべてが、いきなり目の前に飛び出してくるのだ。
道路の左の路地から原付バイクが左折合流して、走行している自分の目の前にいきなり飛び出してくる。それでブレーキ回避が必要になる。左端を走行中の自転車が、走行している自分の前でいきなり左端から右端へ進路変更する。それでブレーキ回避が必要になる。右折レーンで右折待ちをする車列の左を走行していると、右折待ちをする車列の中から、走行している自分の目の前にいきなり進路変更してくる。それでブレーキ回避が必要になる。そうやってやたらと、進路妨害をされるのだ。進路妨害というだけでなく、危険だ。以前の50ccの原付の時はそんなことはなかったが、125ccになるといつもそのような目に遭う。
なぜ、このようなことになるかというと、車体が小さい分、速く走れるからだ。自動車なら車線幅の大部分を占めてしまうが、バイクなら2台並走できるくらい余裕がある。余裕があって広々しているわけなので速度を出すことが可能だ。しかも加速がいいので、それを瞬時に実現できる。それは、自転車、原付、自動車の運転手の想像を超えていることで予想されていない。だから彼らには見えていないのだ。
信号待ちで発進をすると、バックミラーで見ると追いかけてくる車があっというまに小さくなって、あまりの車の遅さにびっくりする。それくらい125ccバイクは加速もトップスピードも速い。
このことは他の交通の運転手は気が付かないことなので、バイクの運転手側で十分に注意する必要がある。
質問の意図するところを答えずトンチンカンな回答をする政治家が多い
テレビのニュース番組を見ていて思うのは、国会議員等の政治家が記者からのインタビューを受けたときに、まともな論理によって答えられないことが多い。尋ねられたことの回答になっていなかったり、論理的に筋が通っていなかったりする。特に聞かれたくない質問をされたときにそうしたことが多いような気がする。
・仮定の質問に答えるのが政治家の仕事
「仮定の質問には答えられない」というのもその代表的な一例だ。政治というのは過去、現在そして未来について検討し、進めていくものだ。北朝鮮がミサイルを発射して日本列島に落下する可能性がある時どうしますか?と質問されて、仮定のことは考えてないというのはありえない。そうした仮定のことは当然考えているだろうが、答えられるかどうかということはある。しかし、それに対して「仮定の質問には答えられない」では答えない理由になっていない。
政治において、過去や現在のことだけでなく、先のことの可能性についてどう考えているのか尋ねられるのは当然のことだ。仮定であることが原因で答えられないのなら、なぜ仮定のことに答えられないのか具体的な理由も示すべきである。例えば、国家機密に該当するとか、それを言及することで良くないことが予想されるとか、複雑で簡単に言えることではない、といった言い方があるだろう。単に仮定の質問には答えられないというだけでは質問から逃げているようにしか見えない。
もちろんまずは回答しようという誠実な対応であるべきなのだが、答えられないとしても、本来は、普通に「これこれこれで答えられない」と申し訳なく言えばいいことだ。
・「しっかり」を連発する議員は頭が悪く見える。
「しっかり」という言葉もたびたび目にする。しっかりという形容詞を付加することで強い印象を与えることを意図しているのではないかと思う。しかし、それであればしっかりという形容詞を付けなかったら、しっかりとはやらないのかということになる。あまりにも度々使われているので、安っぽくなってしまって、良い印象を与えない。
では、しっかりの代わりに「確実に」とか「きっちり」とか、他の言葉に言い換えればいいとか、そういう問題ではない。普通に自分の言葉で話せばいいのだ。
・タレント議員は急に政治家みたいなしゃべり方になる
テレビタレントやテレビに頻繁に出演するコメンテーターのような人が、選挙に出馬することがある。
テレビに出演していたときは、普通に話していて親近感もあって印象がいいのだが、政治家になると、急に話し方が政治家風になって政治家を演じるようになる。それがとても滑稽だ。
なにごとも自然体が一番。肩の力を抜いて、普通にされてはどうかと思う。
・内閣官房長官の態度が横柄
内閣官房長官は、特に記者会見を受けているのを見る機会が多い。そしてしばしば横柄な態度のことがある。現在の内閣官房長官だけでなく、以前からそうした人がいる。
国家運営について記者会見を受けるというのも難しい仕事で大変ではあるが、態度が横柄というのは別問題だ。会見場にはメディアの記者しかいないかもしれないが、テレビカメラを通して国民が見ているので、その態度は内閣に対する国民の印象となる。
おそらく、内閣官房長官も、普段、人と接するときは、あんな態度ではないと思うのだが、何かの意図があってああいう不遜な態度を演じているのか、あるいはそっけない態度が冷静に見えると思っているのだろうか。
特に質問の意図することと関係ないことを答えはじめ、最終的に質問に対する答えとしては、意味をなしていないようなことがある。そのような回答は、まともに答えていないことを、記者も、見ている国民も気が付いているし、結局、良くない印象にしかならない。
日本だけでなく外国の政府のスポークスマンもあまり良い印象でないことがある。しかし、良くないことを真似る必要はない。むしろそうした態度を見て、いかに無作法で印象が悪いかを学ぶべきだ。
内閣官房長官は、頭がいいだけでなく、普通の態度、普通の話し方ができる人、論理的に意味の通ったことが言える人、記者の質問に対して関係ないことを言って言葉数の水増しや時間稼ぎをせず、答えになっていることをシンプルに言える人に務めてもらいたい。
上に挙げたすべてのケースについて言えるのは自然体で普通にするのが一番ということだ。
・仮定の質問に答えるのが政治家の仕事
「仮定の質問には答えられない」というのもその代表的な一例だ。政治というのは過去、現在そして未来について検討し、進めていくものだ。北朝鮮がミサイルを発射して日本列島に落下する可能性がある時どうしますか?と質問されて、仮定のことは考えてないというのはありえない。そうした仮定のことは当然考えているだろうが、答えられるかどうかということはある。しかし、それに対して「仮定の質問には答えられない」では答えない理由になっていない。
政治において、過去や現在のことだけでなく、先のことの可能性についてどう考えているのか尋ねられるのは当然のことだ。仮定であることが原因で答えられないのなら、なぜ仮定のことに答えられないのか具体的な理由も示すべきである。例えば、国家機密に該当するとか、それを言及することで良くないことが予想されるとか、複雑で簡単に言えることではない、といった言い方があるだろう。単に仮定の質問には答えられないというだけでは質問から逃げているようにしか見えない。
もちろんまずは回答しようという誠実な対応であるべきなのだが、答えられないとしても、本来は、普通に「これこれこれで答えられない」と申し訳なく言えばいいことだ。
・「しっかり」を連発する議員は頭が悪く見える。
「しっかり」という言葉もたびたび目にする。しっかりという形容詞を付加することで強い印象を与えることを意図しているのではないかと思う。しかし、それであればしっかりという形容詞を付けなかったら、しっかりとはやらないのかということになる。あまりにも度々使われているので、安っぽくなってしまって、良い印象を与えない。
では、しっかりの代わりに「確実に」とか「きっちり」とか、他の言葉に言い換えればいいとか、そういう問題ではない。普通に自分の言葉で話せばいいのだ。
・タレント議員は急に政治家みたいなしゃべり方になる
テレビタレントやテレビに頻繁に出演するコメンテーターのような人が、選挙に出馬することがある。
テレビに出演していたときは、普通に話していて親近感もあって印象がいいのだが、政治家になると、急に話し方が政治家風になって政治家を演じるようになる。それがとても滑稽だ。
なにごとも自然体が一番。肩の力を抜いて、普通にされてはどうかと思う。
・内閣官房長官の態度が横柄
内閣官房長官は、特に記者会見を受けているのを見る機会が多い。そしてしばしば横柄な態度のことがある。現在の内閣官房長官だけでなく、以前からそうした人がいる。
国家運営について記者会見を受けるというのも難しい仕事で大変ではあるが、態度が横柄というのは別問題だ。会見場にはメディアの記者しかいないかもしれないが、テレビカメラを通して国民が見ているので、その態度は内閣に対する国民の印象となる。
おそらく、内閣官房長官も、普段、人と接するときは、あんな態度ではないと思うのだが、何かの意図があってああいう不遜な態度を演じているのか、あるいはそっけない態度が冷静に見えると思っているのだろうか。
特に質問の意図することと関係ないことを答えはじめ、最終的に質問に対する答えとしては、意味をなしていないようなことがある。そのような回答は、まともに答えていないことを、記者も、見ている国民も気が付いているし、結局、良くない印象にしかならない。
日本だけでなく外国の政府のスポークスマンもあまり良い印象でないことがある。しかし、良くないことを真似る必要はない。むしろそうした態度を見て、いかに無作法で印象が悪いかを学ぶべきだ。
内閣官房長官は、頭がいいだけでなく、普通の態度、普通の話し方ができる人、論理的に意味の通ったことが言える人、記者の質問に対して関係ないことを言って言葉数の水増しや時間稼ぎをせず、答えになっていることをシンプルに言える人に務めてもらいたい。
上に挙げたすべてのケースについて言えるのは自然体で普通にするのが一番ということだ。
2017年6月9日金曜日
加計学園問題で再調査するようだが、菅官房長官ショボボーン必至か
加計学園の問題で、やっと再調査をはじめるということになったようだ。私は記者でもなければ、プロのライターでもない単なる一個人にすぎず、単なる一個人が好きなことを書いているブログに過ぎないので、言いたいことを言えるわけだが、とにかく見ていて痛々しい。その最たるものが菅官房長官だ。今までずっと再調査をしないと言ってきていたわけだが、その再調査をしない理由は文書の出所が不明だからというものだ。元事務次官が証言をしていて、現役の職員の中からも文書が存在するとの情報が報道され、実際に公表されたメールの内容や宛先等からも信憑性があるものであることは誰でも分かる。常識的に考えて、文科省内部に実在する可能性がかなり疑わしいものであって、出所が不明どころか、むしろ出所は明らかだ。文科省の中のパソコンやサーバーを調べればほぼ確実に出てくることが分かっているこの段階において、出所が不明というのは再調査をしない理由になっていない。そら出所を調べないんだから、出所は不明なままという、しょうもないトンチ問答だ。
この再調査で、おそらく文書が発見されるだろうが、そうしたら菅官房長官はどう言うつもりだろうか、これだけ散々ごまかし続けておいて、もはや何を言っても彼の言葉には説得力がない。なんの関係もなく、公共性もないし、興味もない一個人が風俗店に行ったという、聞いてもいない取るに足らない話を持ち出してきて、元事務次官の証言の信憑性を棄損しようとがんばっていたが、信憑性が棄損されたのは、他でもないそうした意図を完全に見透かされた言っている張本人の方である。新聞社とグルになってスキャンダルをほじくり返してきて、告発者への攻撃心むき出しになってどや顔していたが、あまりにも分かりやす過ぎて恥をかいただけである。
そうかといって文書が発見されなかったということにでもなったら、それこそ大炎上になるだろう。もう存在することは誰も分かっているのだから。
どのような展開になるか分からないが、今後のこともあるので、こうした低次元の話ではなく論理的思考力を持った人が国を動かすようになって欲しいので、メディアの記者のみなさんにはがんばっていただきたいという気がする。
この再調査で、おそらく文書が発見されるだろうが、そうしたら菅官房長官はどう言うつもりだろうか、これだけ散々ごまかし続けておいて、もはや何を言っても彼の言葉には説得力がない。なんの関係もなく、公共性もないし、興味もない一個人が風俗店に行ったという、聞いてもいない取るに足らない話を持ち出してきて、元事務次官の証言の信憑性を棄損しようとがんばっていたが、信憑性が棄損されたのは、他でもないそうした意図を完全に見透かされた言っている張本人の方である。新聞社とグルになってスキャンダルをほじくり返してきて、告発者への攻撃心むき出しになってどや顔していたが、あまりにも分かりやす過ぎて恥をかいただけである。
そうかといって文書が発見されなかったということにでもなったら、それこそ大炎上になるだろう。もう存在することは誰も分かっているのだから。
どのような展開になるか分からないが、今後のこともあるので、こうした低次元の話ではなく論理的思考力を持った人が国を動かすようになって欲しいので、メディアの記者のみなさんにはがんばっていただきたいという気がする。
2017年6月8日木曜日
シャットダウンとシャットアウトを混同してる?
最近テレビを見ていると街頭インタビュー等で、「シャットダウン」とう言葉を使っているのを見かけることがある。例えば、「そうした意見をシャットダウンするのは問題がある」「北朝鮮からの輸入はシャットダウンするべきだ」といった感じだ。どうにも違和感を感じる。シャットダウンと言って真っ先に思い浮かぶのがコンピューター等のなんらかのシステムを停止したり、電源を落としたりすることである。先の例で言えば、何かを停止するというより「締め出す」「受け入れない」というニュアンスで使われているように思う。それならば「シャットダウン」ではなく「シャットアウト」の方が自然だ。もちろん、重々承知の上であえて「シャットダウン」という言葉を選んで言っているのであれば別だが。
広く使われているMicrosoft製のOSであるWindowsの最新バージョンであるWindows 10では、電源を切る操作を「シャットダウン」と表記している。そうしたところで「シャットダウン」という言葉を目にする機会が増えてきていて、最近では「シャットダウン」と「シャットアウト」を混同しているのではないかという気がする。
広く使われているMicrosoft製のOSであるWindowsの最新バージョンであるWindows 10では、電源を切る操作を「シャットダウン」と表記している。そうしたところで「シャットダウン」という言葉を目にする機会が増えてきていて、最近では「シャットダウン」と「シャットアウト」を混同しているのではないかという気がする。
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